2013年06月15日

一の坂川のゲンジボタル

大内氏時代、京の都より姫君を迎えましたが、都を偲ぶ姫の哀愁を慰めようと、宇治のホタルを取り寄せました。これが、山口に土着したゲンジボタルと言い伝えられています。

昭和10年12月24日に国の天然記念物に指定保護され、当時から戦後数年までは、一の坂川の本流である椹野川一帯で多く発生し、たえずホタル合戦(雄4〜5匹が1匹の雌を奪い合う)が見られたと当時の人々は話しています。室町時代に書かれた文書によると、旧暦の4月20日をホタル合戦の日と呼び、「ホタルの縁日」として、ホタルの捕獲を禁止し、また、捕獲したホタルを放してやる風習がありました。当時から美しい光の競演を見せるホタルは、初夏を代表する風物詩として人々に親しまれてきました。 
 
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昭和35年/昭和36年頃 
  
ところが、強力な農薬の出現と河川の改修や洗剤の普及などで、流水の汚染と生息地の改変が見られ、ゲンジボタルの減少が目立ってきました。

昭和40年代に入ると、農薬も低毒性のものを使用するよう指導され、河川の改修も極力配慮され施行するようになり、減少したホタルも徐々に増加の傾向がみられるようになりました。故橋本正之前県知事の構想の一つに減少しつつある山口のゲンジボタルの生息・土着を試みる保護対策があり、昭和41年から専門研究委員児玉行氏がこれにあたられました。昭和41年より農業試験場がゲンジボタルの飼育に着手し、当初は農業試験場内の小川に土着させるのが目的でしたが、昭和43年、飼育していたホタルの幼虫が限度以上に増えたため一の坂川に放流したところ、翌年数多くのゲンジボタルが発生・乱舞し、脚光を浴びることとなりました。 
  
昭和46年、8月5日の台風19号により一の坂川が流失し、市民の強い要望もあり、昭和47年、ホタル護岸による改修工事が行われ、昭和49年に完了しています。ホタル護岸工事は、数回となく市民との会合がもたれた結果、最初は伊勢橋から亀山橋の間にホタル保護対策優先の施工法を取り入れ、児玉氏がその指導にあたられました。その後、数回にわたりホタル護岸は改修されました。昭和47年には「一の坂ダム」建設も着工されています。

農業試験場での飼育放流は昭和57年まで続きました。以後、大殿小学校「コミュニティ研究会」へ、そして、平成3年に組織された「大殿ホタルを守る会」へと受け継がれ、大殿地区あげてのゲンジボタルの飼育と一の坂川の環境保全が行われるようになり、現在に至ります。

一の坂川においては次々に橋の竣工も行われ、天花橋から亀山橋あたりでホタルがよくみられます。 
 
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昭和45年頃


※昭和期の一の坂川の写真は『後河原思い出の写真集』(下後河原桜蛍会)より使用させていただきました。

posted by 伝承センター at 16:08| ホタルの保護飼育