■萩焼とは・・・
今から400年前、豊臣秀吉の朝鮮出兵の際、朝鮮から連れ帰った陶工 李勺光(リシャコウ)、李敬(リケイ)兄弟を毛利輝元が広島で預かったが、その後の関ヶ原の戦いに破れた輝元と伴に萩に移り住み毛利藩の御用窯となったことに始まります。
萩焼の窯は、主に登り窯で、傾斜地を利用した朝鮮式の連房式登り窯です。この連房式は、各室が蒲鉾の様な形で3〜5部屋が繋がっており、これらが、傾斜地に作られています。 窯としては長く続きましたが、近年、窯の中にある棚板の積み方などが容易になったことで、現在ではガス、電気窯を併用しながら、登り窯での焼成は年に2〜3回のみとなっています。 また窯は、環境問題などもあり、町中から少し離れた場所に作られています。
■山口萩焼について
1500年代の後半、朝鮮李朝の陶工李勺光により毛利藩の御用窯として開窯された萩焼は、その後およそ400年、李朝の伝統を受けつぎ、さらに見島土などによる陶技が加えられ、萩焼という陶芸が、現在では萩市を中心に長門市、山口市をはじめ全県下に及ぶ広がりを見せている。
松本焼(萩)、深川焼(長門)に次いで宮野焼(山口)が窯の火を起こしたのは1892年、今から118年前、大和作太郎松緑によるものである。
大和作太郎は1855年(安政2年)萩城下の豪商大和屋に生まれたが、若くして陶工を志し、萩東光寺窯で修行したあと、吉田松陰誕生地の近くに松緑と号して「松緑焼」を独立開窯した。作太郎22歳であった。
その後、家をあげて萩から山口へ移住し、宮野大山路に松本萩の分派である窯を築き「松緑焼」または「宮野焼」と呼称され、主に萩焼を制作した。
大和作太郎松緑が1921年(大正10年)7月、意欲の陶芸家としての生涯を終えたのは66歳であった。
今や作太郎翁誕生155年、その陶芸精神をつぎ、伝統窯の火を守りつつ新風を求める陶芸家の郡像が山口萩焼作家協会に集まり、研鑚の日々を送っている。
2010年(平成22年)現在
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